お知らせ
学校の先生をやめた理由①ー申し訳ない気持ちー
2019年8月、えまるじょんがオープンしました。
それまで私は、小学校教諭として海外(青年海外協力隊)で2年、日本で13年働いてきました。今回はその仕事をやめた理由をお伝えしたいと思います。1つ断っておくと、子どもたちとかかわるのが嫌になったわけではありません。
素直で一生懸命がんばる子どもたちをたくさん見てきました。「できた」「わかった」というときの子どもたちのキラキラした表情が大好きでした。子どもたちとのやりとりで授業が進んでいくのが毎回楽しみでした。最初はできなかったことができるようになっていく子どもたちを応援していました。毎年3月のお別れになると心にぽっかりと穴があいて寂しくなっていました。
でも、悩みもありました。
学校教育では手が届かない子どもたち
私が担任してきた1クラスの人数は、27人から38人くらいの間でした。5人違うだけで毎日の宿題のチェックやテストの丸つけの量が感覚的にまったく違うので、38人のときはやってもやっても終わらない感覚でした。
クラスの中にはどうしても勉強についていけない子どもたちがいます。その理由は気力的なものだったり、能力的なものだったりとさまざまです。
私が教師になりたてのころ、まだ放課後に子どもを残して勉強を見ることができる時代でした。2、3人の子どもたちと放課後に授業の復習をしていました。子どもたちにとっては早く帰りたいところを迷惑だったかもしれませんが、その子たちのペースでじっくりかかわることができた時間は、ずっと心に残っているとても好きなものでした。
その後、学校に凶器を持った不審者が押し入った事件が他県で起こったり、下校時に子どもたちが不審者と遭遇したりということがあり、学校全体として下校時刻に一斉に子どもを帰すことにより、1人で下校することを防ぐようになりました。その結果、放課後に子どもとじっくりかかわる時間がなくなってしまいました。
その後は短い休み時間に学習を見たり、給食の時間に給食当番が配膳をしている間、九九の練習をしたりと少しの時間を見つけては子どもたちと遊びながらかかわっていました。
でも、そのような短い時間だけでは到底追いつけるようになることもなく、他の子どもたちとの差は開いてしまう一方でした。また、学校には指導要領という、各学年でこれだけのことをやるようにと国で決められた指標があります。その学年でやるべきことが終わらないと、次の学年で迷惑をかけてしまうので取り返しのつかないことになってしまいます。そのようなこともあり、本当はわかるまでゆっくり学習を進めたいと思いつつも、先に進まなければならず、子どもたちを置いていってしまうことが多々ありました。
授業の改善など試行錯誤
その後「無いものねだりはやめよう」と考え、今ある時間の中でどの子もできるようにすればいいじゃないかと方向性を変えてみました。授業はシンプルにし、教師が教えるところ、問題演習をするところ、話し合うところ、習熟度別に取り組むところ、などをこれまでよりもはっきりさせるべく内容を改めました。教師が教えることも、どうしたら短く的確にわかるようになるのかを徹底的に考えました。1回の授業の中で習熟度別にするときは、習熟度が高い子用の問題と、習熟度が低い子用の問題を用意し、習熟度が低い子たちを教室の前の方に集めて一気に見ていくことをしました。
宿題の出し方も考えました。漢字や本読みなどの一律の宿題に加えて、子どもたちそれぞれのレベルに合わせたプリントを用意しました。その中にはパズルやナンプレ、ロジックのようなものもあり、それぞれ取り組んでみたいものを選べるようにしました。また、習っていないことは宿題に出さないことや、考えることで差が出てしまうようなものは出さないように意識し、習熟度を上げるための反復練習としての宿題になるようにしていました。
その結果、子どもたちの学習への食いつきはとても良くなりましたが、それでも置いていってしまう子どもたちはまだいました。
もやもやする気持ち
そのような状況を何年も続けるうち、毎年毎年「この子たちに申し訳ない」という気持ちが積もり積もっていきました。小学生にとっての1年はとても大きく成長する時期です。その1年を預かっているのに、積み残しをしてしまっていることへの申し訳なさでした。やってもやってもどうすることもできませんでした。
時間の足りなさ、担任1人で教える教科の多さ、生徒指導など学習以外のこと、塾に行っている子と行っていない子の差、そして自分の至らなさ、など言い訳になってしまう部分もありますが、学校教育の限界を感じていました。
そんな気持ちが大きくなり、学校の先生をやめようと決めました。学校の外に出て、ついていくのが大変な子どもたちのためにもっとやりたい。そういう子どもたちのために手が届かないのなら、えらそうに教育を語ることはできないと思っていました。